とある映画を鑑賞して考えたこと

どうも、もずくです。

この記事は「鬼太郎誕生ゲゲゲの謎」(以下、ゲ謎)を見てきた感想をつらつらと書くものです。

立場を表明すると、ゲ謎は私にとってnot for meだったな~という気持ちです。

記事を執筆時点では映画の評判が非常に高く、自分が考えていることをうまく言語化しているような感想が見つからなかったので、自分の考えを整理するためにこの記事を書いています。自分の主張に自信が無くなったり、想定より多くの人に読まれるようなら追記修正削除をするかもしれないです。これはインターネット深海に沈める記事。全部個人の感想だし、むしろ「それは違うよ!」って言ってほしいんだよな~特に複数回鑑賞した人は。もずくは1回見た後Twitterと種々の媒体で考察と感想を読み漁った人間なだけ、なので。

先に言っておくけど、ゲ謎を勧めてくれたお友達には感謝している、よ!!(ここ大事です)

この作品の自分にとっての是非はともかくとして、自分が映画に何を求めているのかということを考えるきっかけになりました。

 

また、この記事はゲ謎および「プロメア」の核心的なネタバレを含みます。(他の映画作品も何作か触れますが、そちらはそんなにネタバレじゃないと思う)

どうぞ、よろしくお願いいたします。

では、本題へ。

 

ゲ謎にハマれなかった理由

私がこの作品を苦手だと感じる理由を表すならば、「結局何を楽しめばいいのかよくわからなかった」ということにあるかと思います。

二次創作が盛り上がっている理由の大部分を占める、水木と鬼太郎父のブロマンスを楽しむには彼らの関係性に何らかの萌えを感じることができず……

”因習村”と称されているにしては村のしきたりの恐怖感に共感できず……

前評判が良かったので、自分が鑑賞前に求めているハードルが高かったのかな、とは思っています。

水木と鬼太郎父の関係性については、鑑賞中に「いつのまにこんな仲良くなったの?」とずっと思っていた。てか思ってたら終わったわ映画。水木が自らの思想や考え方を変えるに至るまで鬼太郎父と話していた印象がないんだけど気のせいでしょうか。

私は物語序盤の水木のマインドがとても好きで、それは何かというと金を持っている人をうまく使ってのし上がるのが一番の幸せである、という信条を実行していることなんですけど。彼自身だけが生き残ったことへの罪悪感との二律背反になりながらも、自分の母や同僚が搾取された経験によって形成されたものという描かれ方をされていました。そ、それが鬼太郎父と1日2日過ごしただけで変わるの?というところがついていけなくて、そのままストーリーラインに置いて行かれてしまいました。他作品のバディもの(例: 「ズートピア」)だとそんなことを思わなかったので不思議だ。

鬼太郎父がなんで水木を信用するようになったのかもあまり良く分かりませんでした。鬼太郎(と鬼太郎母)を預けるまで信頼していたっていう事実があまり受け入れられてない。好感度グラフの変化を数値で表してくれ。キャラの右上に常に表示して。私が鈍くて今回どこで関係値の変化があったのか読み取れなかったから。

説明しすぎが野暮というのは分かるし、オタクは説明しなくても読み取るけど、正直ついていけなかったな……というのがこの2人についての鑑賞後の感想でした。

 

”因習村”こと哭倉村および龍賀の一族のシステムも、あまり意図がつかめないままに終わってしまった。

ええと、ここで私は「プロメア」の話を突然するんですけど、「プロメア」って堺雅人がバーニッシュ(と呼ばれるマイノリティの種族)を使って発電して別の世界に行こう!みたいな展開があるじゃないですか。私は龍賀製薬が行っていた「M」の製造シーンを見て、バーニッシュで発電するくだりを思い出しました。

私は「プロメア」という映画が非常に好きで、3回見に行った(応炎上映たのしかった)のですが、それはそれとして、作品中の差別と搾取の描き方って結構粗削り(もっと言うと悪手)だとは思っています。

それを踏まえて、哭倉村と龍賀製薬って何だったんだろうと思っている。龍賀の一族は幽霊族を攫うし殺すし近親相姦はするし地獄として、村の人たちはその事実を知っていたとしてもまあ……殺さなくてもと思ってしまった。最後のシーンで村は破壊全滅の一途をたどるわけですが、村の人々よりMを買っていた日本軍の上層部とか血液銀行とかその他もろもろ取引先の方々がむしろ悪じゃないのか?正体を知らなきゃ良いってこと?マジか

「プロメア」、ご都合主義でバーニッシュの特性が消えるので本当に良くないんですけど、バーニングレスキューの人たちが「降りかかる火の粉は払う」などと言ってバーニッシュの差別を解消していくことを約束するところで終わるじゃないですか。ゲ謎において現代編の記者(山田)が哭倉村で何があったかを取材することと、妖怪族と人間の関わり方の変化に直接的な関係があるとはあんまり思えないんですけど、それはゲゲゲの鬼太郎シリーズを見れば解決するんでしょうか。現実に存在する戦争体験や震災体験などの語り部と重ねられていることは理解しているつもりなのですが、ゲ謎の終わり方だと何にも希望が見えなくて。希望がないならないでいいんですけど、じゃあ水木が子育てする二次創作とかあんまり楽しく見れないなって……

村ぐるみで悪事をしていたのが滅ぼされるのが因習村作品のサビだとしたら、私はそれを楽しむことができなかったのかな~~不条理すぎて

映画に何を求めているのかを考えている

キャラ(or関係値)萌え、ストーリー、音楽映像の爽快感。

これのどれかが突き抜けていれば私は面白かったな~観て良かったな~って感じるんだと思います。さんざん例に挙げた「プロメア」はストーリーの納得感はともかくとして、音楽映像の爽快感5億点だから私にとって面白い映画だった。同じようなことが「グレイテスト・ショーマン」にも言えて、ストーリーライン自体は割と強引だと思うんですけどところどころに挟まる音楽がめちゃくちゃいいんですよねこの作品。今でもサントラたまにに聞いてる。あと『Rewrite the star』のシーンの空中ブランコの映像の色彩や動きが大好き。

「プロメア」、「グレイテスト・ショーマン」に共通する問題提起に「社会的マイノリティの描き方」ってのがあると思うんですけど、個人的に「ズートピア」はこの問題を子供にうまく説明するきっかけとなるような作品だと感じています。ここらへんの受け取り方は、見返したらまた違う感想になるかも。

キャラ萌え(関係値萌え)する映画は数えきれないほどあって「ズートピア」のニックジュディとか「キングスマン」のキャラクター全員(悪役含め)とか「すずめの戸締り」の芹澤朋也とか。

ストーリーが好きな作品って言われるとめちゃくちゃ難しいですけど、「パコと魔法の絵本」が思い出補正込みで好きです。社会問題を扱った最近の作品なら「コーダ あいのうた」とか。

そこを考えてみると、ゲ謎はキャラも刺さらず、ストーリーは消化できず、戦闘シーンもあまり得意なものではなかったのが私にとって厳しかったな……となっています。水木が”癖”ってオタクに言われているのは、感想を読み漁って知ったのですが正直びっくりしました。私は沙代ちゃんとクリームソーダを飲む水木より長田が裏鬼道衆を束ねている二次創作を読みたいです。

水木、私の思想とは合わなくて苦手だった。彼はこの作品中の日本にとって都合のいいヒーローでしかなくて、それを萌えとか癖として受け取ることができないな、って考えてしまった。

鬼太郎父も同様。長く生きているはずなのに、こんな世界でも子供を産み落としたいって思えるのか。一族の生き様、Mが売れる社会、と、鬼太郎や水木一人を天秤にかけてそれでもこの世界を存続させていきたいってあんまりエモとして消化できないんだけど。

てか正直龍賀克典のビジネスだいすき金持ちおじさんキャラの方が主人公2人より信頼がおけたのだけど、死にましたね。「いわゆる成金の嫌な金持ちと描写されている」、という感想を読み、否定はしないんですけどキツくなったな~沙代ちゃんを見捨てて逃げているところが悪辣と言われているけど、ストーリーの展開からしておそらく実子ではないし、自分だけでも生き残って会社を存続させようというあり方はおかしなものではないと思ったんですけど、ダメですか。

ここまで書いていて、作品に横たわるメッセージ(反戦、家父長制、マイノリティとの関わりなどなど)が多すぎて、これを全部水木が受け止めて解決しようとするところが私にとって受け入れられないものになってしまったのかな、とふと思いました。ゲ謎から絶望や希望を享受できるほど自分が元気じゃなかったというだけなのかもしれない。やはりブログは自分の考えを整理できていい文明

 

ゲ謎の好きなところ
  • BGM(特に、水木がトンネルを抜けて水田を歩いていくところのピアノBGM、レイトン教授の怪しい村に行くとこを感じて良かった)
  • 長田(腹黒糸目強キャラは”癖”。石田彰だし)
  • 裏鬼道衆の鉄砲使ってた人(和風世界の鉄砲使いっていいよね)

 

以上です。

世間体を気にして書けてないことが3倍くらいある。