映画『哀れなるものたち』感想

どうも、もずくです。

もともと、友人から薦められて『哀れなるものたち』を鑑賞したので、それの感想文を単体で記事にしようと思っていたのですが、観てから大分時間がたってしまいました。

 

映画、面白かったです

たいていの映画は劇場で見たほうが面白いですが、この映画も例に漏れず劇場で見たほうが楽しいと思います。と思っている間に劇場での公開が終了しつつある~~~~ 楽しいとは違うな、考える隙間を与えてくれる作品という感覚。 個人的には、フェミニズム映画ではない(要素はあるけど、それ以外の内容も多い)ので、そういう宣伝文句で忌避している人は勿体ないな、なんてちょっと思います。 性別が逆で成り立つかと言われたらちょっと微妙なので、それがフェミニズム映画と言われている由縁なのかもしれない。

ただ映画にはR-18とR-18Gが、がっつりしっかり満タンに入っているので万人におすすめできるわけではないです。特に前者の内容で。

マッドサイエンティストに、なりた~い!

主人公のベラは、マッドサイエンティスト外科医ゴッドウィンによって蘇った女性です。 ゴッドはマッドサイエンティストなので、家の中や庭が大変マッドです。予告編を見れば分かりますが、人間以外にもマッドなことをしています。 やっぱり、マッドサイエンティストと言えば超生命体ですよね。なぜかマッドサイエンティストってバイオ系なイメージありません? 生命に触れることは少なからず禁忌に触れるようなことなんでしょうか。もっと機械系のマッドなサイエンティストっていないの?いないか…禁忌じゃないもんな……(?) 機械系のマッドなサイエンティストが出てくる作品があったら教えてください。

マッドサイエンティスト参考文献↓ 

匿名ラジオ/#128「マッドサイエンティストになってみてぇ~~!!」 - YouTube

舞台装置と音楽が作る悪夢

アカデミー美術賞・衣裳デザイン賞を取っているのが大・納得できるくらいの画面の美しさ~~ まず、舞台がヨーロッパの1930年代の世界を元にしたスチームパンク世界で。馬車が走り空には飛空艇が行き交い、上流階級の人々は船旅をする。魔女宅っぽい時代の発展具合!っていうのが分かりやすいかと思います(もうちょっと都会的かな……)。この世界がベラの眼を通して描かれるので、世界の色彩が美しく不気味。 それに加えて、音楽が超映像に合ってるんですよね。今サントラ聞きながら作業してるんですけど、音楽だけ聴いてると突然不協和音が飛んできてぞっとします。 テルミン?っぽい音の不気味さとか、ティンパニの緊迫感マシマシの音なんかをサントラで聞くと、映画館で見て良かったな、と思います。

しっかし曲が全部めちゃくちゃいい。エンドクレジット用に制作された曲を私の葬式で流してくれませんか?("poor things" finale and end credits)

出典不明ですが、脚本か会話だけから音楽を作り、その後音楽を元に撮影したそうです。監督も作曲家もすげ~~~

 

(ここからネタバレ込みの感想です)

世界ののぞき方

この作品はいろいろな演出込みで撮られています。モノクロ→カラー、魚眼レンズへの切り替えなどなど。 映画の序盤はモノクロで、ベラが旅行し始めてからはカラーへと変化していきます。これは、そもそもファンタジー、寓話っぽい世界観ベラの見ている世界がだんだん情報量を持ってくることが表現されているんだと思うんですけど。 YouTubeの本映画の予告編につけられたコメントで「高校球児のインスタグラムの投稿の彩度が高いのは、彼らには世界が鮮やかに見えているから、」というものがあって、なるほどなあと思いました。家に閉じ込められるところから刺激の多い世界に解き放たれたベラ。高校生活の中で湧き上がる様々な経験と感情(経験していないので、私はそれを”エモい”と表現することしかできませんが)に晒される高校球児。これらが世界を鮮やかに見せている、という解釈は納得感があるようなないような。 それはそれとして、ベラの色知覚特性の成長過程を誇張して表現したのがあの演出なのかな?と思っていたりもする。色知覚の発達がどのように進行するのか詳しくないですが、実際、幼児の色の好みは成人のそれと有意に違うという研究もあるようです。 

それでいて、パリになると一気に画面の色が落ち着くのがいいですよねえ、大人になったことで世界をある程度当たり前として受け取れるようになった、みたいな。引っ越してきたばかりの町はあんなに鮮やかに見えるのに、住んでみるとくすんでいくような現象と似ているのかな。

 

科学者

ゴッドの思想が1から100まで全部好きです。遺体を勝手に解剖実験している時点できっちり犯罪者なのですが、それを差し引いても良い、というかこうなりたい、というか。いや実際になりたくはないな。
ベラが脱走した後に新しい被検体を連れてきて、「前の被験者には愛情とか母性を抱いてしまったのが間違いだった」って言ってたのが印象的でした。思考実験として「成人の体に赤ん坊の脳を植え付けて見たらいい感じに成長過程が見られるんじゃね?」という設定が楽しい(研究倫理的に論文にはならない気がする)のに、父親の愛情なんて与えてしまったら研究成果として望ましくないですもんね~~()って言ってた。

生き物についてすべてが解明できればいろいろなことが楽になるだろう(精神のことでも、肉体のことでも)になるのに、すぐに実験ができないところが生物を対象に研究することの難しさだと考えているので、医者や研究者は大変だろうな。

この映画、濡れ場がめちゃくちゃあります。畳みかけ方に既視感があるなと思ったら『シェイプ・オブ・ウォーター』だなこれ、って観た後思いだした。

性欲を駆動力としてダンカンに誘拐(?)されてみたり、リスボンでほかの男と性行為してみたりするベラ、現代日本からしたらなかなかできることじゃないなあ。これは通常性欲よりも先に道徳や社会規範を教え込まれるからですかね。そういう書かれ方をするのが、本当にゴッドの実験を見ているみたいだった。物理のテストで「摩擦は考えないものとする」、と書かれているように「ただし、倫理や道徳を持ち合わせていないものとする」、みたいな。

性欲が発生する原因として、単なる快楽欲と人とのコミュニケーション欲(特に恋人との場合は愛情表現と呼ぶ)に分けることができるのかなと私は漠然と思っているのですが、舞台が進むごとに後者が高くなっていくことに彼女の学習が見えるなと考えていました。この変化は、社会規範を学んできたというところに加えて、読書をしたり哲学を学ぶことによって、他人が持っている別の心に触れる楽しさを知ったことが理由でもあるのかな、なんて拡大解釈をしています。(パリではセックスワークをやっているので、性欲の原因には前者二つに加えて単なる仕事としての義務感が多くを占めているのかもしれないけれど、それはそれ)

石田衣良の『娼年』という小説を私は心の友のひとつにしているのですが、あの作品も性行為で快楽を感じない少年が娼夫になり、多種多様な欲望を持つ人に触れてコミュニケーションの楽しさに気が付いていくのが話の軸となっています。私はフィクションで描かれる性行為前後の人間同士のやわらかくて繊細で大胆な会話が好きなんだよなあ、なんでだろうなあ。

 

最後に

性欲と恋愛の区別は?とか、「人間としてふるまえる」精神が確立されていく過程とは?とか、そういうことを考えるのが好きなので、映画を観て、一周回って世界を悲観ないしは静観している。作中のダンカンのように、「女は本なんて読まず、難しいことは何も考えずに」みたいな、人間にいくつかのラベルを貼ってコミュニケーションもどきをしたほうが幸せなんじゃないの?って思うこともないわけではないです。こういうことを考えるのって高二病の典型的な特徴なんじゃないか?どうも、JKです。(中二病とか高二病もラベリングの一つなのであんまりそう書きたくはない)

ということで、本作で一番共感できるのはハリーでした。悲観していることを大仰に言うのは不格好だけれど、考えること自体は無駄じゃないと思いたい、ということで。

 

思考実験観察ログとしても、不気味なファンタジーを楽しむという意味でも、素敵な映画でした。